佐藤優氏、マルクシズム、ファシズム、経済政策

元外務省員で服役後現在著述業の佐藤優氏の本を少し読んだ。彼の認識はこうだ。

20世紀末に社会主義体制が崩壊し、自由主義・資本主義が勝利したと見られているが、資本主義の問題は解決されずに継続している。マルクスが見据えた資本主義社会の問題は革命を必然化せずに現代資本主義社会にも繰り返し生じている。(ロシア勤務の経験からそれでも社会主義社会よりはまし、と彼は言っているが。)

資本主義が爛熟して社会主義革命が起きることは必然ではない(宇野理論)。しかし新自由主義のように資本の運動を自由に放置すると労働者は自己再生産しうる最低限度の待遇しか得られず、圧倒的多数の貧困化への傾斜が起きる。USAでの“we are 99%” 運動やオバマが成そうとして成らない健康保険などの低所得者層への福利厚生施策の構築未成などはそれを象徴している。やがて増大する供給力に比し需要不足が恐慌につながる。それは人間の疎外、悲惨を伴いつつ通り過ぎて資本主義の再生(宇野理論)につながっていく。

ファシズムもマルクス主義もそれを超克しようとしたが欠陥があり成功していない。

佐藤氏はそれを“千年王国”で解決すると言っているが、どのようなものかは彼の著作の一部しか読んでおらずまだ小生の知る範囲外だ。是非一度その考え方に触れてみたい。

1年前に読んだ武田知弘氏の「ヒトラーの経済政策」を今読み直している。武田氏はナチスの残虐行為を擁護しないが、経済政策には見るものがあると。世界恐慌の大失業時代からいち早く抜け出したのはナチスドイツであった。

アウトバーンをはじめとする空前規模の公共投資と、大規模店舗規制法などに見られる中小商工業者、中小農民等弱者救済・保護の経済政策、労働者の福利厚生の大幅アップ等は今でも参考にすべきと武田氏は主張する。

ナチスは企業と労働者が対立するのではなく、調整して共に繁栄すべきとしてきた。そして労働者への分配について企業に対する強制力を持っていたのがナチズム、ファシズムだ。これはしかし実現すれば所得向上、需要増大につながる策であり、資本主義の欠陥を補正できる可能性がある。ナチスは公共事業について、事業総額のうち労働者への分配率を決めていたという。現代の日本では公共事業をやっても元請けと2次3次下請の経営が潤い、労働者まであまり回らないため、投資効果が薄いとも武田氏は言う。

佐藤優氏は安倍首相が大企業に昇給を依頼した事を捉え、もしこれを強制できるならばこれはファシズムであるという。(だからダメだと言っている訳ではない)

確かに、需要不足に伴う失業は単に労働者が所得を失うだけでなく人間としての誇りや自信、存在意義を奪ってしまう。我々は身近にそれに近い状況を今まさに見ないわけではない。就活で何十回受験・面接しても自分を認めてくれる職場が出てこないとなると、人生をスタートさせようとしている若者を絶望に追い込んでしまう。今、世界の若者の間に憤懣や憎悪が溜まって行きつつあるのではないかと危惧する。イスラム国のメンバーも欧州移民の子弟が多く、受け入れてくれなかったキリスト教・資本主義社会への反感・恨みが彼らを動かしているのではないか。(本日10月7日の報道では日本人学生にもその動きがあったと伝えられた。)

しかし、若者の憤懣をファシズムは既存権益の打破だけでなくナショナリズムに向けてしまった。ナチスの突撃隊などはその表れではないか。中国を見ても官僚資本主義の極致から弾き飛ばされる若者たちの憤懣を、今は偏狭なるナショナリズムに向けているのではないか。韓国の日本に対する執拗なる“性奴隷”攻撃も、大学を出ても4割が就職できない若者たちの憤懣のはけ口になっていないか?ヘイトスピーチに見られる日本での問題もしかりだと思われる。

こうした状態が続くと、カタストロフィーとしての戦争が些細なきっかけで起きてしまう危険がきわめて大であると小生は恐れている。マスコミも戦前同様、読者確保のために刺激的な広告で購買を誘う。一度殺し合いが生じるとちょっとの事では和解できない。誰もが和解は口にしなくなる。中東での争いがそれを示している。

アベノミクスによる超金融緩和にもかかわらず景気がはっきりとは上向かないのは基本的に需要不足が原因だ。小生は、需要不足を補うのは政府による支出しかなく、そしてそれをまかなう財源は増税しかないと思う。欧州並みの消費税、法人の外形課税等はやりきってほしい。

そしてそれを若者の雇用を生み出す事業に投入して生きがいを創出してもらいたい。森林の管理と良質水資源の確保、無電柱化等による市街地景観の美化、公共住宅投資、国土強靭化等、やるべきテーマはいくらでもある。

(なお、公共事業が更に新たな需要を連鎖的に生み出すという乗数理論は、今は破綻しているようである。岩井克人氏だったと記憶するが、要は公共事業は事業そのものだけの需要しか生まない。だが何もしないよりは何らかの価値が生ずるのでそれを良しとすべき。)

それにより若者が偏狭なるナショナリズムに向かわず、安全安心、そして世界に開かれた国家作りが可能になるのではないか。

要は増税をやりきる政治力である。戦争へ傾斜するナショナリズムを止め、方向転換を図ってほしい。そのために自民党だけでなく民主党やみんななどが大同団結し、自我を捨てて日本国家の転換期を乗り切ってほしい。大方の政治家は分かっているのではないか。2度と日本国民が70-80年前のような悲惨をなめないために。

 

 

パックスロマーナとパックスアメリカーナそしてパックスチャイナ

塩野七生氏の著作によると「敗者をも同化するクレメンティア(寛容)」こそがパックスロマーナ(ローマによる平和)を生んだと。カエサルは確かにガリア(現フランス)で敗者の支配層をそのまま生かしかつローマ市民権を与え、有力者にはローマ元老院の議員に任じたと。アメリカも日本敗戦後は確かに支配層を温存し、また日本の若者を留学させアメリカナイズした。
 しかしベトナム戦争の評価はさておき、9.11以降のアフガニスタン、イラク戦争、そしてアラブの春で反政府勢力を支援したことなど、すべてがうまく行っていない。パンドラの箱を開けたかのように「イスラム国」など様々な勢力がうごめきはじめ、収拾がつかない状態のように見える。
 その間隙を縫って中国が「我こそは次代の平和を築く勢力なり」と主張しようとしている。
 しかし中国が世界の平和を作る事を認めた場合、その平和は息苦しいものになろう。なぜなら当たり前だが自由がないからだ。共産党政権下の平和はご免こうむりたい。
 だからと言ってアメリカの方針・政策について行ってよいものだろうか?私は詳しい事は分からないが、ウクライナの東部については様々な勢力の思惑が渦巻いているのだろうが、そこに住んでいる人々にすれば、「誰が主導権を取っても良いが、戦争、殺し合いはやめてくれ、平和のもとに生活を築き上げ、努力が報いられる社会であって欲しい」と思っているのではないか?
 プーチン氏となら話し合いが成り立つのではないか?政治リーダーは「沽券に係わる」など体面を取り繕うのではなく、住民本位で考え、妥協してほしい。戦争、殺し合いはやめてほしい。このブログのテーマの「安全保障」からするとロジックではなくお願い、希望、叫びに近いのですが、あえて申し述べます。

ボジャーノフが良かった

2010年のショパン国際ピアノコンクールは興味があり、インターネットで演奏が聴けるので予選から演奏を聞いていました。その時、「圧倒的だなあ」と思ったのが【エフゲニー・ボジャーノフ】です。彼はその直前ヴァン・クライバーンコンクールでも入賞していた事を後で知りました。その時1位が二人いてそのうちの一人が日本の辻井伸行さんです。辻井さんはその後NHKなどでも取り上げられ一躍時の人になった事はご存じのとおりです。

クライバーンの時もボジャーノフは1位ではありませんでした。ショパンコンクールでも4位にとどまりました。

私は音楽は好きですが素人なので何故彼の演奏が良かったかを説明するのは難しいのですが、いわば「聴かせるものがあった」のです。何か「物語ってくれた」のです。ショパンのこのノクターンは私はこのショパンコンクールで初めて聴いたと思います。ショパンがこのような曲を晩年書いたことも驚きでしたが、彼の演奏には没入できるものがありました。
聴いて下さい。

彼がなぜショパンで優勝しなかったのか不思議です。

30年ほど前に、チャイコフスキーコンクールにチャレンジしたピアニストの言葉を、その方と親しい人から間接的に聞いたことがあります。それは、「審査は最後は政治だ」と。

ボジャーノフはブルガリア出身です。それも影響したかもしれません。また、彼はステージ慣れしていました。一方優勝したロシアのユリアンナ・アヴデーエワはうぶで純真な感じでした。審査員にはそれも彼に反感を感じる一因になったかも知れません。ファイナルのコンチェルトで、ボジャーノフは少しミスしたような気がします。気のゆるみかもしれません。

様々な要素で彼は優勝しませんでした。でも私は彼こそが2010年のショパンの優勝者にふさわしいと今でも思っています。

サイト名「水餃子」について

サイト名「水餃子」ですが、家内の母の得意料理のひとつです。身も皮も手作りです。

ひとくちでは食べきれないほどの大きな餃子を茹でて、ポン酢などのたれに浸して頂くととてもおいしいです。我が家の場合はたれに辛子を入れます。ザク切りにしたたまねぎが、茹でても歯ごたえがあり、食感も良く食が進みます。

家内の母は父親の仕事の関係で少女~乙女時代を大連で過ごしました。日本敗戦後もすぐは日本に帰れず、八路軍(共産党)に父親を取り囲まれたときに、銃口と父の間に立ちはだかったという武勇伝も聞きました。実家にやっとたどり着いたのは戦後1年以上経過してからでした。
朝鮮の港から帰国に向けて日本の船に乗ったときは本当に安堵し、妹と思わず万歳を叫んだ、とも。国家に守られない国民がいかに無力かをいやというほど身に染みて感じたのだと思います。今でも「わたしは絶対に外国なんか行きたくない、日本がいい」と言います。

その彼女の得意料理が水餃子です。いくら外国嫌いでも、おいしいものはおいしいのです。先日中国のお客様を迎えるときに純粋の日本料理ってなんだろうと考えてみたのですが、あまりおいしいものが思い浮かびません。トンカツ?すき焼き?天ぷら?これらは全て、外国の文化に触れて考え出された日本の料理です。結局、人間は多様な人々との交流があってより豊かになるのだと思います。水餃子image

私の今の一番の関心事は日本の安全保障です2

さて、先回の投稿で、安倍首相の対応が適切ではない、と書きました。その理由は、彼の言動が歴史修正主義と見られるため、仲間を多く作る点において他国のためらいを生んでいる点です。

彼は「戦前の日本は悪くなかった、自衛のためやむを得ず戦争に立ち上がったのだ、日本人はもっと日本の国家の歴史と伝統に誇りをもち、祖先を敬い、日本人としてのアイデンティティを取り戻そう」と言いたいのだと思います。東京裁判史観からの脱却を目指しているのでしょう。

その気持ちは分かるが今、それを言う時期か?というのが私の考えです。それを今言い募ると日本を叩こうとしている勢力に日本叩きの根拠を与え、彼らを利し、日本を孤立化させるリスクを犯し、日本国民の安全を毀損するするのではないかと思います。鄧小平氏が云った”韜光養晦”を今こそ逆に日本の指導者が実践し、逆に主敵の非難を躱し、逆に主敵の非道さを世界に明確化すべきではないか、と思います。

ここで、”韜光養晦”についての誤解があるので一言申し上げます。「実力が付くまではおとなしくしている、実力が付いたら本性を現す」と、中国のこれまでと最近の傲慢ぶりを比較して、このように理解している向きがありますが、そうではありません。下に、正しい解釈を引用しておきます。

ーーーー朱氏に言わせれば、「“韜光養晦”が本質的に反映しているのは、中国人が身を処す時、ことを為す時、学問をする時の価値観、志向である。名声や優れた才能があるにしても、人や物事との接触において、慎重で、控え目で、才能をひけらかしたり、言い募ることのないように戒めることだ」という。つまり一時的に才能を隠して反撃のチャンスをうかがうなどという姑息な戦術ではなく、儒教の「中庸の観念に近く」「中国が平和発展を模索し、交流や協力を通して、ともに利益を得、勝利を得、共同発展を実現し、調和のとれた世界、地域の構築を推進するものだ」と解説する。-----

ではいつ日本はその考えを云うのか?と考える方もおられるでしょう。それは私にはわかりません。しいて言えばアメリカも中国も自省的になった時、とでも言いましょうか。でも日本人の人権が守られ、現在の国家と日本人のあり方が賞賛に値するならば、過去についての評価はやがて変化してくるのではないでしょうか?日本は戦後、過去を清算して精励努力し今日がある、今日を見てくれ、これで良いではないですか?

その意味で、私は靖国神社の首相参拝は自粛したほうが良い、という考え方です。その理由はA級戦犯が祀られているからです。戊辰戦争、西南戦争の死者は祀られていない。つまり時の権力側は祀られ、正当化されている。日清日露戦争は正しかった、大東亜戦争は負けたが正しかった、と言い募るわけです。これはまだ続いている国際連合のレジームに真っ向から対峙することになる。そこまでして世界を説き伏せ、論調を変化させうるだけの実力がまだ日本にはないのではないでしょうか?

それよりもまず国連のレジームを認める中で抵抗感を減らし国連の常任安保理事国になって実績を積むことが重要だと思います。

なお、慰安婦問題は国家の関与を認めない方針で当然行くべきですが、同情の念はいつも表明していればよいと思います。

以上がいま小生が考えている事です。従って安倍首相のこれまでの最大のミスは靖国神社への参拝であり、それ以外は概ね良好ではないかと思います。

靖国神社以外の戦死者を弔い平和を願う施設の建設については反対論が多いようですが、これは逆に日本の姿勢を世界に表明し、主敵の非難を躱すためのよい契機になると私は考えます。宗教法人としての靖国神社がA級戦犯を祭祀から外せないなら仕方がないと思います。

本件についての意見をお聞かせください。

 

私の今の一番の関心事は日本の安全保障です

以前から少しその気はあったのですが、ある方のお勧めもあって、初めてブログというものを書きます。
ただし読者数はほとんど期待できないので悪しからずご了承ください。

人間の欲求の中で一番は生存と存続の欲求でしょうか?生存し存続するために様々な欲求が生まれる。お金を稼ぎたい、出世したい、熱い、寒い、美味しい、まずい、気持ち良い、人を好きになる、親子の愛などはすべてその欲求から発していると思います。

しかし最近はその欲求を根底から覆されるかもしれない物騒な時代になりました。お隣の中国、韓国の新聞社の日本語版WEBニュースなどを見ると、もしかしたら彼らの一部は日本の明治以降の歴史と日本人の存在自体が許されない位に日本及び日本人を憎んでいるように感じます。(それは度重なるプロパガンダと教育の成果かも知れませんが。)核爆弾を日本全土に落として日本人を抹殺しろと呼号している勢力もいるくらいです。

私は戦後のベビーブーマーの世代で、戦争も経験せず今日を迎える事が出来ています。その前の世代は大変な惨禍に見舞われました。孫の顔を見るにつけ、この子どもたちを不幸な目にあわせてはならないと強く感じます。

考えてみれば終戦から今日まではかなり恵まれた時代であったと思います。それは、米ソ冷戦の中、日本はアメリカの陣営で過ごせたからです。ある意味ではアメリカの武力に守られて経済活動に専念できた。1960-70年代の安保闘争やベトナム反戦運動なども所詮はその枠組みに守られた範囲でのものでした。中国も1990年ころまでは今のような経済発展と強大化など想像もできませんでした。いわゆる平和憲法も、当初は日本が再度武力を使わない様に弱体化する意図が連合国側にはあったと思われますが、日本サイドからすると日本が危険な目に遭わないための理由付けに都合よく使われてきました。

さて、今やアメリカはかなり内向きになってきました。世界の警察官としていつまでも振舞ってくれないかもしれません。一方、中国は人民日報webなどを読む限りではいよいよ世界帝国として栄光と誇りをつかもうとしています。アメリカと太平洋を2分しようなどというのは帝国主義以外の何物でもありません。(そう言っているのは一部の共産党を中心とした支配者でしょうが。)

こうした情勢に対応するには日本としては自らを守る気概と自衛力を身に付けるとともに、日本の国柄や姿勢を理解し共感しててもらえる他の国々、つまり仲間を多く作っていかねばなりません。いわゆる集団的自衛権を世界に明確に示すことは当然と言わねばなりません。私に言わせれば「平和憲法をないがしろにして戦争に巻き込まれる」というのは全くの筋違いであり、今まで戦争に巻き込まれずに済んだのは戦後の冷戦と日米同盟の成果と言わねばなりません。そしてその賞味期限が切れようとしている今、新たな安全保障の枠組みを作り上げることは、政治家の一番重要な課題であり、安倍政権は至極まっとうな仕事をしていると考えています。

しかし今の安倍政権のやりかたがすべて適切かというと必ずしもそうではないのではないか、というのが私の今の考えです。そう思う理由については次の投稿で書きたいと存じます。